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4月職人の手仕事。

職人の技と炎の力で生まれるガラス製品

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溶けたガラスを竿で巻き取り、空気を吹き込んで形にする

榛名山東ろくに工場を構えるハルナグラスが手掛けるのはガラス瓶やガラス食器などの生活必需品が中心だ。日本の近代化とともに庶民に身近になったガラス製品は、どこか懐かしい輝きを放つ。

◎時代の要請受け多様化

初代・田島正八は富岡市で絹などを扱う商家に生まれ、15歳の時、母親の勧めで当時のガラス生産地である大阪へ修業に行く。「正八の母は、相場に左右される絹より、これから発展する産業としてガラス職人の道を歩ませたいと考えたようだ」と四代目、田島靖彦社長は商人からの転身の理由を説明する。

1903(明治36)年、修業を終えた正八が高崎市末広町にハルナグラスの前身「田島硝子製造所」を創業。当時はランプの火を覆うガラス製の筒を専門に製造した。

大正時代になり、菓子入れや金魚鉢などのガラス容器も作るようになる。その後、照明器具、コップなどの食器と、製品は時代の要請に応じて多様化。中には技術伝承ができずに作れなくなったものもあるが、何十年も同じ規格の製品を作り続けた。

関東大震災や空襲で工場や設備を幾度か失うものの、ガラス製造の基本工程は変わらない。戦後の復興期は一升瓶や牛乳瓶も製造、丈夫なガラス製の「モノ入れ」は重宝され、それはプラスチック製品が一般的に流通するようになるまで続いた。

食器やインテリアが並ぶ工場直営のショップ

◎店舗併設し需要を把握

1987年、ハルナグラスは榛東村上野原の森林の中に本社工場を移転する。これは、三代目の実(故人)が森林に囲まれた北欧の工場を視察したことがきっかけだ。北欧の工場では、そばに燃料の木材が豊富にあり、森の中で職人たちが休憩する。三代目はその様子を見て、美しい自然の中で創造力がはぐくまれることを期待したという。

ハルナグラスの商品を中心にした店舗も併設した。微妙な色彩の違いなど客が求めているものを聞き、製品に生かすためだ。今は食器、花びん、インテリアなど二千アイテムが、直販ならではの手ごろな価格で販売されている。

時代の流れの中で、ガラス製品作りはオートメーション化が進み、手作りにこだわる必要が薄れた上、ガラスがなくても生活に困らなくなった。戦後の最盛期に120人いたガラス職人も、今は4人にまで減った。いま、「Re・デザイン」をテーマに、機能的な手作りガラス製品を考案している。靖彦社長は「手作りガラスは工芸品の側面もあるが、生活の中で使われてこそ価値を持つ」と、使いやすいガラス製品にこだわり続けている。
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