
上杉鷹山、上杉景勝、直江兼続などを祀る松岬神社
東京駅で山形新幹線に乗り2時間半。山形県の南の玄関口でもある米沢駅に着く。ここが昨年の大河ドラマ「天地人」の主人公、直江兼続が街づくりの基礎を固めた、「上杉の城下町」米沢市だ。
ドラマの舞台、背景を歩いてみる。米沢を洪水から守るために築いたとされる「直江石堤」、会津120万石から米沢30万石に減封された上杉の人々が質素に暮らしたことを語りかけるような、白壁でも板塀でもない、ウコギの生け垣、兼続、お船(せん)夫妻の墓所である春日山林泉寺などだ。直江兼続の足音が、わずかながら聞こえてくるような気分になる。
武田信玄、織田信長らと堂々と対峙(たいじ)し、名将とうたわれた上杉謙信。越後(今の新潟県)に生まれ、謙信に仕えたという兼続は、謙信の後を継いだ上杉景勝の右腕・執政となり、内政、外交に活躍。上杉を越後から会津に移して東国の抑えとした天下人・豊臣秀吉からも、兼続は高く評価され、頼りにされていたという。

上杉、武田両軍の戦いを再現する米沢上杉まつり
秀吉の死後、天下を手中にしようとした徳川家康は、上杉に反抗の動きがあるとして説明を要求する。この時、兼続が家康に送ったとされるのが、世に言う「直江状」で、時の権力者である家康の言い分を皮肉たっぷりににやり込め、論破している。
家康は激怒し、会津征伐に向かう。この間、兼続と連携したともされる石田三成が挙兵するが、取って返した家康に関ケ原の戦いで大敗。徳川の時代が幕を開け、上杉も会津120万石から米沢30万石にに減らされた。
兼続のすごさは、あるいは、この時期から発揮されたと言えるかもしれない。収入は4分の1になっても、1人の家臣もリストラせず、武士の手による開墾など食糧増産に励み、街づくりを進め、あるいは徳川の重臣の子息を直江家の跡取りに迎えて対徳川との関係改善を図る。かと思えば上方から職人を招き鉄砲を量産、有事に備えたり。彼は自分の死後は直江家を絶家とするようにもした。少しでも米沢藩の財政負担を減らそうという思いもあったようだ。
秀吉から目をかけられ、家康には堂々とモノを言い、後年は米沢の地で、人々の暮らしの安定や上杉の存続に心を砕く。その彼の冑(かぶと)の前立て、飾りの部分が「愛」の文字であったというのも、今使われる意味ではなかっただろうが、それこそドラマチックだ。
兼続が眠る米沢の雰囲気の一端と若干の観光案内を加えたい。今から20年ほども前、仕事で米沢に行き、土地の人の前で「上杉謙信を尊敬している」と話したら、いきなりしかられた。「謙信公と言いなさい!」。その後、転勤で米沢に暮らした際、娘の通う幼稚園のお遊戯室には、謙信公と、米沢藩中興の祖とされる鷹山公の肖像画が掲示されていた。
ここに暮らす米沢人の精神にふれることもぜひお勧めしたい。兼続は、そのような米沢人のまさに祖型であり、近年の日本と日本人の在り方からの転換を考える人たちにも有形、無形の励ましやヒントをもたらしてくれるだろうから。
上杉、武田両軍の激突を再現する「川中島の戦い」を含む「米沢上杉まつり」は4月29日から5月3日まで。「愛」の前立ての冑は、上杉神社で拝観できる。問い合わせは米沢観光物産協会=0238(21)6226まで。







