
鹿野城址
戦国時代の因幡国(鳥取県東部)、伯耆国(鳥取県中西部)は、山名氏に加えて、西方の毛利氏、出雲国に本拠を置く尼子氏、そして東方から天下統一を狙う信長と秀吉の軍勢が、勢力争いで激しくしのぎを削った土地でした。
1580年、81年の鳥取城を巡る戦はすさまじく、秀吉の兵糧攻めの壮絶な戦いなどが有名です。こういった数々の戦や群雄割拠など血塗られた戦国時代を勇猛果敢にくぐり抜け、鹿野城主になった亀井茲矩(かめい・これのり)は領民に対して善政を行い、数多くの業績を残したことで知られています。
尼子は毛利の前に滅亡しかかっていました。1569(永禄12)年に尼子の本拠地・月山富田城(現・島根県安来市広瀬町)が落城。尼子の再興軍に加わった武将・湯ノ永綱が討ち死にすると、当時13歳だった息子の新十郎(のちの亀井茲矩)は流浪の身となり、諸国で武芸を磨き「槍の新十郎」の異名を得るまでに成長します。その数年後、新十郎は尼子の復活を願って毛利軍と戦う山中鹿之助幸盛と鹿野の地で出会い、鹿之助が養女とした尼子の重臣・旧亀井家の姫と結ばれ、亀井茲矩を名乗ることになるのです。

城下町の町並み
毛利と対立する信長は、鹿之助や茲矩ら尼子勢を支援することになり、尼子勢は秀吉軍の軍勢として上月城(現兵庫県)に入ります。しかし毛利の大軍に囲まれ、鹿之助は降伏。ここに尼子勢は壊滅するのです。しかし、秀吉と行動を共にしていた茲矩は難を逃れ、そのまま秀吉軍に残り、因幡攻めで活躍します。そして毛利方の鹿野城を落とすなど戦功を上げ、1581(天正9)年に鹿野城主を命ぜられました。
本能寺の変以降の豊臣時代には、領内を豊かにするために干拓による新田開発や用水路の建設、殖産興業や朱印船の建設、銀山開発などの策を次々と打ち出し、多岐にわたる分野でその非凡な才能を発揮したのです。本能寺の変での恩賞として秀吉に琉球国を所望するなど、その目は広くアジアなど海外にも向けられていました。また領内のお年寄りを城に招いてもてなすという「敬老会」も始めているのです。
現在の鹿野城跡公園は500本のソメイヨシノが咲き誇る名所になり、春には大勢の人でにぎわいます。町内には非業の死を遂げた鹿之助の菩提寺「幸盛寺」や亀井公墓所、城下町を貫く街道「鹿野往来」沿いには往時をしのばせる古い町並みも残っています。
戦国の世を生き延びた茲矩が愛し、自ら地域の発展に努めた鹿野の町。あなたも鹿野を訪ねて茲矩の志(こころざし)に触れてみませんか。
※大きな地図をご覧になりたい方は地図画像をクリックしてください。







