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巨大勢力に立ち向かい続けた戦国武将・太田資正 「軍用犬」などのアイデアも

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市民の憩いの公園となっている岩槻城跡

戦国ブームだ。歴女などの造語も現れ、古戦場や城跡に訪れる観光客も増えているという。
直江兼続や真田幸村など、残念ながら埼玉には歴女の心を躍らす戦国武将はいない。小勢力が多く大大名が現れなかったのがその理由であろう。
しかし、負けても負けても大勢力に立ち向かい続けた気概ある戦国武将はいた。かの太田道灌のひ孫で、岩槻城城主であった太田資正である。三楽斎とも呼ばれる。

資正の一生は、小田原・北条氏との戦いに明け暮れる毎日だった。
1546年、主君・上杉朝定の部将として参陣するも、河越で北条氏康の軍に奇襲に合い敗戦。わずか数騎で松山城に逃げ込み、さらに上野まで追われてしまった。翌年には松山・岩槻両城を奪回したが、味方の裏切りなどにより敗戦、北条氏に投降。北条傘下で活躍したが、上杉謙信が関東に侵攻すると、それに従い北条氏と戦う。しかし、1562年、松山城が落ちると岩槻に孤立。同年岩槻城を留守中に長男氏資が北条方に寝返り、資正は常陸の佐竹氏に身を寄せた。そこでも北条氏と戦い続けた。

敗戦の連続だが、小勢力で日の出の勢いを持つ北条氏に対抗した武将としての力量は本物。前線の松山城と本城である岩槻城間の伝令を訓練した犬で行なうなど、今で言う「軍用犬」も用いており、アイデアにも優れていた。
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣。秀吉に謁見し、「天下一の名将」と褒め称えられたと言われている。翌年常陸片野城で死去。

小国ゆえに奇策を用いらざるを得ない資正に悲哀を感じながらも、巨大な勢力に立ち向かい続けた心意気にはすがすがしさも覚える。この不器用な名将の名をぜひ覚えてもらいたい。
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