
山本常朝の草庵近くに建てられた石碑。石碑の裏には“憂世から何里あらふか山櫻” “白雲や只今花に尋合” の俳句が刻まれている
2010年は武士の心得を説いた「葉隠」が誕生してちょうど300年と言われています。
一般的には「佐賀の戦国武将誰々」よりもこの「葉隠」の方が知名度が高いのではないでしょうか。「葉隠」の中の一節、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」のフレーズはあまりにも有名で、自分もその言葉の響きは素直にカッコいいと感じています。ただし、「死ぬ事」という強烈な言葉の印象が一人歩きをして、「葉隠」=「危険な思想」と捉えられた不幸な時代もあったようです。「葉隠」自体は決して「危険な思想」ではありません、様々な事象に対して徹底的に考えられた言葉が積み重ねられ、品格と教訓にあふれた書物なのです。
今回はこの「葉隠」を説いたとされる山本常朝(じょうちょう)とそれを書き記した田代陣基(つらもと)を紹介します。まず山本常朝(1659-1719)は鍋島藩随一の学者といわれ、24歳で御書物役、28歳で江戸の書写物奉行などをつとめました。30年以上仕えてきた2代藩主鍋島光茂が亡くなったときに、一緒に殉死しようとしましたが、追腹禁止令により切腹することが叶わず、出家剃髪して金立山麓の黒土原の草庵に隠居しました。ちょうど隠居して10年後に田代陣基が尋ねてくることなります。
一方の田代陣基(1678-1748)は19歳で3代藩主網茂の祐筆役(秘書的な文官)につく、優秀な武士だったようです。4代藩主吉茂にも仕えましたが、32歳のときに突然免職となります。免職になった理由は不明ですが、一説には吉茂に仕える他の家臣の謀略とも…。お役御免となり失意の生活を送っていたところ、常朝の存在を知り、黒土原の草庵を尋ねます。
常朝が説く「武士道」に感銘をうけた陣基は草庵近くに住みはじめ、その後約7年の歳月をかけて常朝の口述をまとめます。これが「葉隠」として後世につたえられたものです。その後、常朝は亡くなりますが陣基は6代藩主宗茂の時に祐筆役に復職します。きっと「葉隠」を実践し、奉公にまい進したのでしょう。
某テレビ局の大河ドラマの主人公としてとりあげられることはありませんが、佐賀の県民性を形づくった書物の作者として、絶対に外せない二人でしょう。
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