
小村が学んだ藩校「振徳堂」
「国家が向上の機会に恵まれた時に、若さを回復した国民の特色をこれほど見事に表している人物は他にいない」。まるで司馬遼太郎の「坂の上の雲」の登場人物を活写しているかのようだ。TVドラマ化されている秋山兄弟や正岡子規ほど有名ではない。
その男は身長4尺7寸(1m43cm)の極めて小柄な男だった。薩長土肥(薩摩、長州、土佐、肥前)が幅をきかせた明治時代にあって、日向国飫肥藩(宮崎県日南市)5万石という小藩の出身でもあった。家もわずか13石という下級武士。そのちいさな国の小さな男が大学南校(東京帝国大学の前身)の教師から最大級の賛辞を送られた。

飫肥城周辺を人力車で散策
1905(明治38)年7月のニューヨークタイムズは、その小さな男・小村寿太郎(1855-1911)のプロフィルとして「東京帝国大学の最初の卒業生の1人であり、ハーバードから学位を取得した最初の日本人である」と書く。冒頭の一文は、その紙面から引用した。
小村が日露戦争終結時の全権大使(外務大臣)として、米国東部のポーツマスを訪れたのは1905(明治38)年夏。大国ロシアの艦隊を日本海海戦で打ち破ったこともあり、国民は勝利に酔いしれた。小村全権一行は新橋駅で伊藤博文や山県有朋ら、明治維新の元勲に見送られ、沿線は日章旗を振る群衆であふれ返った。それが同年秋、講話会議が終了し、賠償金が得られないことが分かると、国民の熱気は不満へと一転する。東京市の派出所226が焼き払われる大騒動となり、群衆は「小村を斬首せよ」と騒然となる。国の疲弊した財政と軍事力が周知されなければ無理もない。

小村寿太郎
講話会議で樺太割譲と遼東半島の委譲を勝ち得たのは、情報収集力と卓越した交渉力のあった小村ならではの功績だった。その後も関税自主権の確立など多くの功績があったにもかかわらず、小村の葬儀の日、東京市内で弔旗を掲げる家はなかった。
今も外務官僚や外相として、有数の評価を得ているのは、質素な生活ぶりと「将来、日本がアメリカと宿命的な敵同士になる」と予測する慧眼の持ち主だったからにほかならない。彼はこう書き残している。「余にとるべきものがあるとしたならば、それはただ『誠』の一字に尽くされると思う。すなわち、学問に対しても、同胞との交際においても、将来を計るにも、いずれもこの『誠』の一字を忘れぬ覚悟でいる」。その言は世紀を経ても簡素にして重い。
参考文献「小村寿太郎 青春の自画像」(宮崎日日新聞社)、「ポーツマスの旗」(吉村昭著、新潮文庫)
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