
伊勢湾に浮かぶ答志島には九鬼嘉隆の胴塚がある。
「鳥羽水軍」と聞けば、歴史好きならピンとくる人も多いはずです。戦国時代、天下統一を目指す信長、秀吉の元で活躍した水軍で、海賊大将と呼ばれた「九鬼嘉隆」が率いました。そんな海の武将である九鬼嘉隆が生まれたここ三重県には、ゆかりの地が点在するということで、歴史浪漫を求めて志摩半島を巡ってきました。

鳥羽駅から徒歩10分の常安寺には九鬼嘉隆が供養されている
1574年(天正2)信長による伊勢長島一向一揆鎮圧では、九鬼嘉隆が大船、小船約320隻以上を率い、艦砲で織田軍を援護し勝利に貢献しました。また1576年の第一次木津川沖合戦では毛利水軍に惨敗し、信長より「燃えない船を建造せよ」と命令を受け、世に名高い「鉄甲船」を建造したことは有名な話だと思います。1578年の再戦では毛利水軍に勝利したことにより織田軍が優勢に傾せました。その後、嘉隆は鳥羽に築城し伊勢・志摩両国のうち三万五千石を領知したそうです。そんな歴史背景を思い浮かべながら鳥羽の海を見つめると、海賊大将・九鬼嘉隆が何百隻もの船を率い勇ましく航海していく様子が、蘇ってくるようです。

常安寺には九鬼嘉隆に関する関係資料が残されている。
信長の死後は、豊臣秀吉に仕え、九州征伐、文禄・慶長の役には水軍の将として功績をあげ、その名を世に知らしめました。やがて息子である守隆(もりたか)に三万石を譲り、自らは5000石を残し隠居していましたが、関ヶ原の戦いでは西軍に属し、父子敵味方に分かれ戦うことになり敗北してしまいます。その後、厳命された嘉隆は鳥羽湾の答志島に身を隠すこととなります。息子・守隆は家康に父の助命を賜ったのですが、間に合わず嘉隆は洞仙庵(とうせんあん)で自刃してしまったという悲しい話も残っています。答志島に渡ると今でも九鬼嘉隆の首塚や胴塚が残り、その近くの高台からは美しい鳥羽の景色が広がり波音が静かに響いています。







