
九戸政実(くのへまさざね)の乱
豊臣秀吉の奥州仕置は完了し、ここで秀吉による天下統一が成されたと思われた。しかし一人の男が北奥の地で挙兵した。その男の名前は九戸政実。小田原決戦の後…天正19(1591)年に起きたがゆえ、その戦の起きたことさえ、現代では殆どの人が知るよしもない。
小田原決戦は戦国時代の最後の大きな戦の1つに挙げる人の多い、天正18(1590)年に勃発した豊臣秀吉による大掛かりな、約半年間にも及ぶ関東侵攻である。北条方の城は山中城(今の静岡県三島市)をはじめ、高尾山麓に建てられた八王子城(今の東京都八王子市)など各地で力攻めに遭い落城、戦国最強を誇った周囲30kmにも及ぶ広大な小田原城をも、ついに開城を決断、決戦は秀吉の圧勝に終わる。

九戸城 図面
その翌年の正月、北奥羽の有力国人にして当地の大名・南部氏の親族にして家臣団の1人であった九戸政実が、豊臣秀吉による「奥州仕置」に反旗を翻し、本拠地たる九戸城(今の岩手県二戸市)にて5000人の軍勢をもって、篭城を敢行する。秀吉軍は約6万人もの大軍勢を北奥羽へと差し向けるから堪ったもんじゃない。開戦後、早くも九戸本城が攻撃にさらされた。すぐに抗戦が不可能なことを悟った九戸勢は降伏した。九戸政実は将領百五十人とともに斬首に処せられ、ここに九戸氏は滅亡した。この時、女子供も容赦なく斬り殺され、のちに「九戸の撫で斬り」と呼ばれた。
しかし最後まで豊臣秀吉の天下統一を拒んだ九戸政実は岩手では英雄として崇められている。







