
忠治の墓
JR両毛線国定駅。そのすぐ近くに、幕末の侠客、国定忠治(1810-51年)の菩提寺・養寿寺がある。
「博打のお守りになる」といって、墓石を削って持って行く不心得者がいたからなのか、忠治の墓の墓石は丸みをおび、墓碑銘も読めない。現在では、防護のため墓石全体が鉄柵で囲われている。
養寿寺の境内には、忠治の遺品を陳列した「国定忠治遺品館」もある。寺の人に話せば、有料だが館内を見せてもらうことができる。忠治が使ったというタンスや湯飲み、道中合羽などが並び、往時をしのぶことができる。
忠治は養寿寺のある上州左位郡国定村(伊勢崎市国定町)に生まれた。本名は長岡忠次郎という。生家は繭糸商も営む豪農だったというのが通説となっている。裕福な農家の子として、読み書きを学んだり、馬庭念流の道場に通ったりしたが、気性が荒かったのか、17歳の時に賭博のけんかがもとで人を殺し、川越にいた侠客・大前田英五郎を頼り、博徒への道を歩むようになった。

「国定忠治遺品館」 入館料は大人200円、子供50円
忠治の名前を有名にした芝居や講談は、この時代に上州岩鼻代官所(高崎市岩鼻町)の代官をしていた羽倉外記が書きのこした「赤城録」「赤城逸事」がもとになっている。
外記は、天保7年の大飢饉で、忠治が私財をなげうって飢えに苦しむ人たちを救い、忠治の縄張りの赤城山麓では餓死者がでなかったという話を聞き、忠治の伝記をまとめた。外記は「私の支配地からは餓死者が出たのに恥ずかしい」とまで言って、忠治の功績をたたえた。同時代の役人が書いた物であり、史料として信頼性が高いと評価されている。
対立する侠客を殺したり、当時重罪だった関所を破ったり、良くないこともたくさんしているが、困っている人がいれば、だまって見過ごすことができない。お上がやらないなら、少々乱暴な手段を使っても、お上に逆らってもやってやろうーそんな風に考える人物だったのだろう。いかにも上州人らしいといえる。
飢饉の時に貧窮民を救っただけでなく、農業用の溜池を造る資金を出したりもした。忠治の縄張り内では、治安もよく、地元の人たちに慕われたのもうなずける。幕末の混乱した世の中で、制度疲労を起こした幕府の体制に盾突き、庶民の側に立って行動した忠治は、改革者としての一面も持っていたのではないだろうか。
しかし、いかに外記が高く評価しようとも、忠治の中にある反骨精神は、為政者にとって都合の良い物ではなかったはずだ。そのせいなのか、同時代の大前田英五郎や清水次郎長といった侠客が明治まで長生きをしているのに、忠治は関所破りの罪で磔になるという悲劇的な最期を迎えた。
時の権力に逆らって庶民の味方をするー処刑されたことで、上州人にとっての忠治の残像は、ヒーローとして強く焼き付けられたといってもいいだろう。
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