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現代でも通用するビジネスモデルで財政再建 由利公正(1829-1909年)

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福井城内堀公園には、長崎での販売ルート開拓のため横井小楠と由利公正が一緒に旅立つ姿を表現した銅像があります。

明治政府のマニフェスト「五箇条御誓文」を起草したことで知られる由利公正は、1829年福井市毛矢町で生まれました。公正は、当時の武家社会では珍しい優れた経済センスの持ち主でした。福井藩に招かれた熊本藩出身の横井小楠から財政学を学び、藩の財政改革を見事に成し遂げました。

由利公正肖像写真(福井市郷土歴史館蔵)

公正たちは、商品に原産表示を付けるなど、現代でも通用する福井藩のビジネスモデルを考案しました。糸や木綿、茶といった商品を買い上げ、販売まで総合的に管理する役所を藩に設置。商品には製造人の印と名札を付けさせ、役所でも押印。品質管理を徹底し、万一不良品があったら藩が保障するというものです。

この流通システムは大成功を収め、藩の財政が著しく改善、幕末の激動期に福井藩が雄藩として活躍する下地となりました。

こうした公正の秀でた能力が坂本龍馬から高く評価され、大政奉還後の維新政府への参画を打診されます。このときの対談から、維新政府の財政方針が生まれたと言われています。この直後に龍馬は暗殺され、公正を維新政府に推挙したことが龍馬の最後の仕事となりました。

福井市街の足羽川に架かる幸橋は、公正の建議によって造られました。この橋の南詰に由利公正の住居がありました。

明治新政府に登用された公正は、わが国最初の紙幣「太政官札」の発行に踏み切り、新政府の成立期の財源を支えました。1871年に東京府知事の就任。現在の繁華街「銀座通り」の礎も築いています。

公正は福井の経済を立て直し、明治国家の資金調達、そして国家の方針の原案を書くなど、時代の先を見通すことができた人物でした。
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