
宮崎空港搭乗口そばにある、「もしもしコーナー」。家族、同僚、友人、恋人。さまざまな人たちが、旅立つ前に思いを語り合う
空の玄関口の「もしもしコーナー」
携帯電話の普及で、公衆電話は都市の絶滅種になろうとしている。メールの普及でさらに拍車をかけ、架線電話はいよいよ肩身が狭い。私たちは「より早く」と徒歩から馬、船、鉄路、航空機へ乗り継いできた。意思の伝達手段も木簡や紙から、ラジオ、テレビ、雑誌や新聞、ネットへと「より多く」へ移行してきた。しかし、「より早く」「より多く」情報を得る方法は今も昔も変わらない。それは相対して話すことに尽きる。
年間300万人の乗降客でにぎわう宮崎空港。観光やビジネス客の玄関口として、多くの人の出会いと別れを見つめてきた。日本初の民間パイロット養成機関として1954年、航空大学校が開設され、極東航空(現・全日空)のプロペラ旅客機が飛び立ったときから半世紀経ても変わらない。

1日約90便の定期便が運航される宮崎空港。国際定期便も就航し、時代のニーズに合わせ発展を続けている
宮崎空港搭乗口の傍らに、見送り客と搭乗客がガラス越しに電話で話せる「もしもしコーナー」ができたのは1983年のこと。登場ゲートで見送った後も、姿が消えるまで「元気で」と声をかける両親。「お母さんも」と涙ぐむ娘-。「そんな姿が身につまされた」と発案当時、総務課長だった長濱保廣さん(現・宮崎空港ビル社長)は回顧する。
携帯電話やメールで人と人との距離感は縮まったはずなのに、惜別感は今も変わらない。就職や進学、転居と、空のターミナルにはさまざまな人間模様が繰り広げられる。宮崎県都城市の木下絹子さんは長女・園乃花さんの留学見送りのため、別れを惜しんでいた。「(留学先の)韓国は寒いから、あったかくして」「うん。分かってる」。「毎日きちんと食べるんだよ」「うん。そうするから」。当たり前の会話は、ガラスごしになると、哀切感を帯びてくる。
ことばは、目の表情、唇の動き、手足の所作、声の強弱によって、彩り豊かな〈言の葉〉を伝えるからこそ、「言霊」との異名があるのかもしれない。山上憶良が「言霊(ことだま)の幸はふ国」の様式が、神話の里・宮崎に今も糸電話のように残されているのは、幸いというほかない。
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